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空には月という明かりがあるじゃないか

数年前に開催された故・星野道夫氏の展覧会で
買った写真集を何気なく開いてみた。
当時写真展に行ったぼくは、アラスカに憧れる、いわばよくいる学生だった。
星野道夫と同じように、探検部に所属していたぼくにとって、
憧れの北極圏を探検の場所として選ぶのはごくごく自然な成り行きだったと思う。
今は…、今でも北極圏に憧れるのだが、
当時ほどアラスカに対する文化的な憧憬というものは薄れつつあるように感じた。
たぶん、今は鹿児島つまり南方の方にばかり赴いているからだと思う。
琉球ー大和文化、いわゆるヤポネシアの文化や自然をもっと学びたいと思っている。
もはや言い古された言葉だとは思うが、本当に星野道夫の写真には迫力がある。
それは、ほかのどんなネイチャーフォトグラファーよりも確かな迫力だ。
なぜだろう?
昔、こう考えたことがある。
それは、他のネイチャーフォトグラファーが沢山の地域で取材しているのに対し、
星野道夫は常にアラスカを撮り続けたため、
彼の写真には、彼の魂が強くこびりついているからなのではないか、と。
写真には、撮り手の性格が本当に滲み出てくるものだと思う。
彼が本当にアラスカを愛していたことが、よく伝わってくる。
…そんな気がする。
先週、1ヶ月半の旅を終えて東京に戻ってきた。
一番最初に感じたことは、東京の人々はなんと早いスピードで動いているのだろう、
ということと、東京にはトンデモナイほどの人間がいるのだ、ということ。
これまでも、旅を繰り返し、その度に同じことを思っていたと思うのだが、
今回はより一層、それを強く感じてしまった。
星野道夫は著書に何度もこのようなことを書いている。
それは、自分とは別の時間が確かに存在しているのだ、ということ。
ぼくが鹿児島の離島で貝採りに夢中になっているときに、
東日本大震災と呼ばれる災害が起きた。
実家のある東京も相当揺れたらしい。
でも、そんな事件が起きていた一方で、ぼくはのんびり貝を採っていたのだ。
確かに、都会と同じ時間が流れているはずの場所で、
ぼくは都会とは全く異質な時間の流れに身をおいていた。
そう、今でも、ぼくが訪れたそのトカラ列島では緩やかな時間が流れている…。
アインシュタインに言わせると、
時間は、個人個人によって違う流れた方をしているらしい。
そんなようなことを以前、アインシュタインの理論を相当噛み砕いた本で読んだ。
楽しい時間は早く過ぎ、そうでない時間は永遠のように長く感じる。
自然のまっただなかにいるときと、新宿駅のプラットフォームにいるのとでは、
やはり異なる速さで時間は流れていく。
時間は、つまり、その人が体験しているものによって異なる速さで流れていく…。
だったら、ぼくは、ゆるやかな時間に身を置き、
様々なことに瞑想の時間を費やしてみたい。
この前、奄美大島の知人から面白い話をきいた。
現代におけるパラドックスの話だ。
薪でお湯を沸かす時間を、もっと他のことに使うために
人間はガスでお湯を沸かせるようにしたところ、
今度はそのガス代を稼ぐために、薪でお湯を沸かしていた時間を使って
仕事をしているのだ…と。
つまり、そういうことなのだ。
ぼくたち人間は、何かを発明すると別の問題をすぐに引っ張り出してくる。
そこでぼくたちは、「その発明」を見直すことはほとんどない。
「別の問題」を解決するための、新しい「発明」をしたがるのだ。
電気が足りなくなった。
じゃあ、発電所を増やそう。
これ以上発電所を増やせないよ。
じゃあ、もっと効率のいい発電所にしよう。
それでも足りません!
じゃあ、アレを使おう。核燃料があるじゃないか。
それでも足りなくなりそうだ!
じゃあ…
という具合に。
そして、今回ようやく、発明そのものを見直す機運が高まってきたようだ。
電気が足りなくなるのなら、節電すればいい。
寒ければ、焚き火を熾せばいいじゃないか…。
といっても、都会ではまさか焚き火を熾すわけにもいかないし、
そもそもそのための薪がなかなか手に入らない。
だから、全て原始に戻すことはできないけれど、
使用料を減らすことなら簡単にできるはずだ。
この夏が過ぎ、もしかしたら皆、電気代が安く済んだことに驚くのではないだろうか。
(東京電力が電気代をコントロールするようなことがなければ)
家計にも優しいんだから、できれば節電はそのまま続けたほうがいいに決まっている。
星野道夫だったら、こんな時にどう考えるだろう。
もしかしたら、日本がこんなことになっていることも知らずに
グリズリーの撮影をし、河原で焚き火に見惚れているのかもしれない。
確かに、時間は同じように存在し、流れているのだ。

空には月という明かりがあるじゃないか