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私が台湾に留学しようと決めた理由

まったく知らなかった方には唐突に思えるかもしれませんが、今、私は台湾での留学のために準備をしています。

今の自分の仕事を台湾にいる間もできるように整理したり、台湾のことを調べたり、もちろん中国語の勉強をしたり…。

大学を卒業して、すぐにワーキングホリデーでオーストラリアに行きました。

新卒でどこかに就職する気は有りませんでしたし、就職したところで、英語もしゃべれない、国際感覚もない、そんな人間が役に立つのだろうか、そんなことより事前にさまざまな経験をした方が良いのではないだろうかー。

そんな生意気なことを考えていました。

また、「大学生活の集大成が就職活動」という風潮にも大きな疑問を持っていました。

みんなが髪の毛を茶髪から黒髪に染め直し、個性のカケラもないリクルートスーツを着始めた頃のことです。

ぼくは「大学生活の集大成」として、今まで誰も研究していないような地域での研究を進め、誰よりも面白い卒業論文を書いて見せようと考えていました。

思えば、その頃あえて髪の毛を茶色に染めていたような気もします。

だからぼくは、みんなが説明会や面接に行っている間、ずっとあっちこっちの農村に行っていました。

おかげで農村に長期滞在することができ、長期滞在しないと調査ができない「トカラ列島」という地域の研究をでき、最終的に優秀卒業論文をいう表彰をしていただけました。

優秀卒業論文に選ばれたときは、口先だけでなく結果を残せて良かったと胸をなでおろしたものです。

ちなみに、ぼくが本来就職活動をしていたはずの時期は、ちょうど就職氷河期が終わりを告げ始め、新卒にとっては非常にチャンスの大きな時期だと言われていました。

しかし、卒業を間近に状況は一変します。

そう、リーマンショックにより、大量の内定取り消しがなされたのです。

「やはり、他の人とは違うスキルがなければいけない。それに、今後は日本人だからという理由だけで働けるような状況ではなくなるだろう。」

このショッキングなニュースで、ぼくはやはり自分が海外に出ることは正しい判断だったと確信しました。

まあ、少しくらい就職活動した方が、その後の役に立ったのかなあとは今でも思ってますけど(笑)

さて、そんなわけで卒業したばかりの4月10日にぼくは単身オーストラリアに渡ります。

この辺の話は省きますが、異国での生活は刺激に溢れ、さまざまな友人ができました。母国語以外の言葉を話せるのも楽しいものでした。

そして、英語が理解できると今まで自分では開くことがなかった世界の扉が、一斉に開きだしました。

「ああ、英語をしゃべれるのは、なんて面白いんだろう。」

オーストラリアの後も、ニュージーランドやカナダ、イギリスなど、英語圏でワーキングホリデーができる国はたくさん有ります。

オーストラリアの後は、次々にそういった英語圏の国に行こうと思っていました。

だけど、まさか、自分が中国語を勉強したいと思うなんて、夢にも思いませんでした。

だけど今では一所懸命になっているんです。

オーストラリアでのワーキングホリデーの後、縁があって留学関係の仕事にちょこっと携わり、英語以外の言葉も勉強したいと思ったのがキッカケでした。

こういうのも変ですが、ぼくは一人でオーストラリアに行ったとき、言葉で不自由することはあまりなかったんです。

でも、短期留学でオーストラリアに訪れる生徒さんのなかには、英語が本当にチンプンカンプンという生徒さんも多かったんですね。

そうした生徒さんは、学校に行っても何もわからない。ホームステイ先でも、何もわからない。何も伝えられない…。

最初の数日はいいのですが、徐々に元気をなくし、ホームシックになっていく生徒さんの姿は本当に不憫でした。

まあ、その山場を越えると、みんな元気を取り戻すんですけどね。

そんな生徒さんの姿を見て、いったい、どんなに寂しい気持ちなんだろうか…。その気持ちを自分も知りたい、わかってあげたい。

そう思って、次のワーキングホリデー先を英語圏ではない台湾に決めたところから、ぼくの中国語学習がスタートしました。

しかし、人間追い詰められないとなかなか本気にならないものなんですよね(笑)

そんな決心の後、ぼくは新たな決心をし、地域活性化のためのNPOを立ち上げてしまったのです。2010年の末のことです。

当時は、地域活性化とか農村のブームが本格化する時期でした。

NPOのNの意味すらよく分かっていない人間が、いきなりNPO法人を立ち上げたのです。今でもよくやったなあと思っています。

NPOを立ち上げ、最初に行ったプロジェクトは、トカラ列島中之島でのボランティアツアー。

しかし、そのツアーのまっただなかで、東日本大震災が発生します。

これをキッカケとし、地域社会を重要視する文化が生まれ、今では地域活性化や農村、体験型ツアーはもはやバズワードとなっています。

そして現在、私の主宰するNPOも法人化し3年目に突入しました。

これまでにいくつかのメディアで紹介していただき、応援してくださる人も増えてきました。

また、本当に微々たる収入では有りますが、自分の月給くらいは出せるようにまで成長しました。

でも、ぼくの目的は、もちろんECOFFだけではありません。ECOFFを更に発展させた未来を描いています。

そのためには、まだまだ勉強しなければならないことがたくさん有ります。

ECOFFの事業が決定的にうまくいっていなかった頃、ぼくは自分の勉強不足、経験不足に絶望していました。

そんなある時、ぼくは期限が差し迫っていることに気づきます。

ぼくにとって、異国での生活や異文化コミュニケーション、語学の習得は自分やECOFFの将来にとって必要不可欠だと考えています。

そのためにもっとも効率が良い方法がワーキングホリデーです。

その国にいながら、働くことも語学を学ぶことも自由です。期間は1年間。一生のうちそれができるのは一つの国につき一度だけ。

そして、その資格は30歳までしか与えられないのです。

もし今動き出さなかったら…。

恐らく、思いきってECOFFの活動をスローダウンさせる勇気がわかず、いつのまにか30歳を迎えてしまうのではないか?

そしてワーキングホリデーの期限をみすみす逃し、一生後悔するのではないか?

そして、こうも考えました。

今後、ECOFFをもっと上手に経営するためには、NPO先進国に行って1から勉強するべきではないか?

そこで、ぼくはあわてて30歳になるまでのカレンダーを紙に書き出し、残りの期間を確認しました。

すると、今決心しなかったら、自分のしたいことが実現不可能であることに気づきました。

ECOFFは今、オンラインショップが軌道に乗り、本来事業のボランティア部門に関しても、インターンシップ制度がカタチになりつつあります。

そんななかで、日本を離れるのには責任を感じていないわけではありません。

しかし幸運なことにECOFFに本気で携わってくれる仲間が現れました。

彼のおかげでぼくは最後の決心をし、この冬からもう一度ワーキングホリデーの旅を始めることにしました。

正確には、色々思案した結果ワーキングホリデーの前に留学をすることに決めました。

言葉が分からない状態で仕事を探すのは大変なことだからです。

予定は立ててはいますが、でも実際にその先どうなるかはわかりません。

まずは、ぼくが今ちっとも操ることができない3つめの言葉を勉強しに台湾に行きます。

ちょうどこの前台湾で1ヶ月暮らしたときに、ぼくは本当に辛い思いをしました。

自分以外の人が楽しそうにしゃべっているところに、ぼくは一切入り込むことができませんでした。

自分の気持ちもうまく伝えられません。

たまらなくなって泣き出しそうになったこともありました。

言葉がわからないということは、本当に不便です。そして悲しいです。

でも、それを乗り越えた先には、今までよりもっと楽しいことがあることを知っています。

だから、ぼくは中国語を勉強します。そして、それは未来のECOFFをもっと面白くする起爆剤になるはずです。

10月18日に台湾に行きます。

まずは3ヶ月勉強して、ECOFFの仕事が忙しくなる2〜3月は鹿児島に行きます。

というわけで、10月18日以降は東京を離れることになります。

これを通じて、自分の仕事と留学を両立することを証明できればいいな…と思ってます。