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インドの思い出【#01 ガンジス川の祈りと朝日】

[box_yellow]私には派遣添乗員をやっていた時代があります。

NPOの仕事に集中できないため、短い期間しかできませんでしたが、そのなかで訪れたインドは特に思い出に残っています。

インドに行くと人生が変わるという人が多くいます。私は、まさかそんな大げさな。と思っていましたが、やはり私もたった一度インドに行っただけで様々な思想に変化を与えられたものです。

パソコンの中身を整理していたら、ガンジス川で書いた日記がでてきたのでブログにて公開します。もしかしたら不適切な表現があるかもしれませんが、インドの現状をより分かりやすく表現するために一部直接的な言葉を使用しています。[/box_yellow]
「プアン」とも「パパン」とも「ブー」ともつかない音色が飛びかっている。道路には地面が見えないほどにたくさんの車、人力車、人はおろか、牛や犬がとおっている。

手のひらのない手で小銭を求める乞食。両足がないかわりに両腕で歩く老人は健常者と同じ速さで動いている人。下半身が発達せず、犬のように四つんばいで歩く物乞い。その背丈と年齢の割にはアンバランスな大きさの顔だと思った少女の首筋には、野球玉ほどの大きさのコブがあった。活発な笑顔の正体はどうやらそのコブらしい。

「チャチャ、チャチャ!」

物売りがしつこく声をかけてくる。「マイフレンド」という意味のヒンディー語だ。ぼくが日本人グループの添乗員だと分かるとすぐに声をかけてくる。

雑踏をかきわけ、人力車をつかまえるとぼくらはインド最大の聖地であるガンジス川に向かう。人力車は「リキシャー」と呼ばれていて、どうやら日本の人力車にその語源があるらしいが、定かではない。

もちろん、人力車というくらいだから人力で動く。前に自転車がついていて、後ろに座席があるのだ。

座席側には二つの車輪がついているから、人力車は人が乗れる三輪車とも説明できる。二人乗るだけでもう狭いというくらいの座席なのだが、ほかの人力車を見ると三人も四人も乗っているのを見かける。

ギアが何段もある近代的な自転車ならまだしも、人力車は普通の自転車に座席を付けただけのシンプルな作りだ。これでよく大勢の人間を乗せて走れるものだと思う。おまけに、人力車はスイスイと人混みをよけて通るものだから、思ったよりも早く移動することができる。

ガタガタで雑然とした道を、人力車に乗って縫うように走り抜ける。すると歩いていたときとは違って、まるでインドの町を上から覗き込んでいるかのようだった。

視点と移動するスピードが変わると同時に、ぼくらはより一層、無責任な観光客に変貌する。ここなら「バクシーシ」の声も物売りの「チャチャ」も聞こえてこない。

どんな旅でもそうだが、視点や移動速度が変わるだけでその地域で感じられるものは大きく変化する。飛行機で行けばものの1時間という距離も、列車で5時間かけて行けば見えるものはまったく違う。歩けば乞食や物売りに囲まれてちっとも進めない道をバスで走り抜ければ、見かけの美しいものしか見えてこない。

列車のなかには列車のなかのドラマがあり、町の喧騒のなかでは日々のドラマが繰り広げられているのだ。

ガンジス川に到着したときにはすっかり日が暮れてしまったが、「ガート」と呼ばれる沐浴所はこうこうとした灯りに照らされていた。太鼓や鈴の音が鳴り響き、若いお坊さんがガンジス川に祈りを捧げている。手には真っ赤に燃える炎。

炎は回ったり、上がったり下がったり様々な動きを繰り返している。お坊さんの目の前にはガンジスがとうとうと流れているが、背後には対象的にあふれんばかりの人々が共に祈りを捧げている。あたりは神聖な雰囲気の歌につつまれ、まるで別世界にいるかのように感じさせる。

この、お祭り騒ぎのような儀式は一年を通じて行われているそうだ。

ぼくらはその様子を見るために手漕ぎのボートに乗った。「手漕ぎ」というと小さなボートを思い浮かべるかもしれないが、インド人の体力は並ではない。30人くらい乗っているボートですら「手漕ぎ」だ。人力車と同じように、乗り物には乗せられるだけ人や物を乗せるのが慣習らしい。

川にはすでに数えきれないほどのボートが浮かんでおり、出遅れたぼくらはずいぶん遠くから川辺で行われている儀式をながめることになった。

ボートとボートは遠慮なくぶつかり合い、隙間などどこにもない。しかし、前方でボートが少し動き出したかと思うと、隙間などないはずのボートの合間をぬって奥から他のボートが抜け出してきた。ほんのわずかな隙間があれば抜け出すことも可能らしい。船頭同士がボートを押し合って移動させるのだ。

こうもたくさん舟が浮かんでいると、川に向かって祈りを捧げているんだか、ボートに乗っている観光客に祈りを捧げているんだか分からない。

現代風に解釈すれば、祈りはガンジス川の恵みによって生きていられることに対する感謝だから、お金を落とす観光客にも祈っているのかもしれない。が、祈りを捧げている群衆からはそんな俗っぽい匂いは感じられなかった。

ガタッという音がすると、ぼくらのボートの背後からボートが一艘近づいてきていた。乗客は一人しかおらず、若い白人の女性だった。その女性も他の観光客と同じようにじっと儀式を眺めていたが、しばらくするとボートの群衆からは静かに離れていった。

ぼくはその表情に、聖なる儀式とそれを観光する俗人の対比に嫌気がさしたような顔色が混ざっているのを感じられた。きっとそれは、ぼくの心そのものなのだろう。人は他人を通じて自分の感情を知ることもあるのだ。

静かに感じたいな。

そう思った。ここバラナシは、ヒンドゥー教徒にとってもっとも神聖とされる地だ。ガンジスの流れは朝、昼、夜とそれぞれ違うはずだ。そしてそれは川を見る人の心模様でも大きく異なるだろう。なぜぼくは仕事として、ツアー客を引き連れてここにいるのだ。

本望じゃなかった。ガンジスを眺めて、人生観に変化を与え、なによりも未来を変える人々といっしょにいるならいい。だが、今ぼくといっしょにいる人は老人ばかり。それもただ写真を撮り、忙しく観光地をめぐり、ガイドの説明もろくに聞かない種類の人々だ。

ここに来るべき人はもっと他にもいるのではないか。こんな人々が乞食を乞食のままでいさせるのではないか。だから、本望じゃなかった。またここに来なければならない。もっと深いインドを見なければ…。

翌日のガンジス川からの朝日は美しかった。

これまでに山の稜線から昇る朝日は何度も見てきたが、水平線からくっきりと登ってくる太陽は初めて見たのではないだろうか。

ゆっくりと、地球の回転をも感じさせながら朝日が昇ってゆく。陽光が穏やかな水面を照らす。瞬間、私にはガンジス川がミルク色に染まっているように感じられた。

ヒンドゥーの神話に「乳海撹拌」という物語がある。かなり大雑把に説明すると、はるかな昔、神と悪魔が協力しあって乳海、つまりミルク色の海をかきまぜて不死の薬をつくった。そしてその時悪魔が死に絶えたという話だ。

もっとも有名な神話でもあるこの物語の乳海とは、ひょっとしてガンジス川に朝日が昇る光景からインスピレーションを得たのではないだろうか。ガンジス川が彼らにとって神聖な川であるかぎり、その可能性も否定できないのではないか。

それに、川の向こう側から太陽が昇るのはこのバラナシだけだ。なぜなら、ガンジス川はこの地でだけ、南から北に向かって流れている。朝日に向かって沐浴ができるのはバラナシだけなのだ。

見たことのない美しい朝日を眺め、しばし、言葉を忘れていると、ボートは火葬場の近くにやってきた。炎がくすぶり、黒い煙が昇っている。

遺体が焼かれている場所の奥には階段があり、奥の道へと続いているようだった。そこに、もう1体が横たわっていた。遺骸は布に包まれてはいるものの、誰にも介抱されていなかった。まるで物のように、そこに置いてある。

ヒンドゥーでは人が死ぬと白い布に包まれ、竹で組んだ担架に乗せられ、ガンジス川へと運ばれる。ガンジス川にある火葬場は、死ぬ時に一番神聖な場所なのだという。かつての王はこのガンジス川で葬られるためにわざわざ隠居し、川畔に豪奢な建物を建てた。ガートに今も残る立派な建物はその名残だ。

現在ではゲストハウスや、高級ホテルに作り直され、もっぱら観光客に利用されている。そんなホテルに泊まる人々のうち、どれくらいの人がその歴史を知るのだろうか…。

ガンジスの水は泥のように濁っていたが、朝日の放つ淡いオレンジ色に塗りたくられた川面は実に神秘的だった。もし、科学のない世界に自分が生きていたら、やっぱり、きっと、これが神聖な川だと思うのだろう。そんなふうに思った。

台湾の居留ビザ申請という壁は違う意味で高かった

台湾の居留ビザ申請ができなかった2つの意外というか間抜けな理由

海外で暮らしている時に誰しもがぶち当たる壁というのがある。言葉の壁に、文化の壁。それから、他にもいろいろある。きっと他にもいろいろあるはずだが、あと何があるんだろう。ちょっと今は他に思いつかなかった。

ところでぼくは今、台湾に在住する日本人ならば必ず一度はぶち当たるであろう居留証取得の壁の前にいる。

そうそうそれだ。ビザの壁というものもある。

さて、今回も前回に引き続き「しようとしたのにしなかった」話をしてみたいと思う。

[kanren id=”3474″]

一見誰の役にも立たなさそうに思えるが、これが意外と一部の人の役に立つはずだ。だからこの話をしてみたいと思う。

[box class=”box29″ title=”ご注意”]この記事の要点は、新北市に居住している場合は台北の移民署では居留ビザの申請ができないということなのですが、2019年の時点では新北市居住者でも台北の移民署で申請できるようです。コメントありがとうございます!

なので、この記事は昔話としてお楽しみください。でも、もしかしたらまたできなくなっているかもしれないので、その辺は自己責任でお願いします。[/box]

台湾で居留ビザを申請しようとしたけどしなかったお話

そう、こんなブログを見に来るような賢明な読者ならすでにお気づきだろうが、今回の「しようとしたのにしなかった」ものは、居留ビザの申請だ。

事前に説明しておきたいのは、そもそも「居留ビザ」とは一体なんなのかということ。

普通、台湾で長く暮らしている人は「居留証」というカードを持っている。

ちなみに英語だと「Alien Resident Card」略して「ARC」と呼ばれる。

「エイリアン・レジデント・カード」とはなんともSFチックでカッコイイ。台湾に長く暮らすならぜひゲットしたいものだ。というかゲットすることが義務付けられている。

この居留証はつまるところ「台湾で暮らしてもいいよっていう権利」を証明するものだ。これを持っている人は多い。

ところが、同じように台湾で暮らすためのビザである「居留ビザ」を持っている人は少ない。なぜなら、居留ビザはこの居留証をゲットするための一時的なビザに過ぎないからだ。

なぜだか知らないが、居留ビザをゲットしたら2週間以内に居留証に交換しなければならないらしい。

だったら最初から居留証を発行してくれればいいのにと思うのだが、とにかくそういうルールらしい。

ちなみに妻は「政府はお金が欲しいだけじゃないの?」と言っている。いかにも国民らしい意見だと思った。

まあ真偽はともかく、外国人であるぼくの立場は台湾ではたいへん弱い。なので、何に関してもなるべく穏便に済ませるように心がけている。

分かりやすく説明すると、巨人ファンが甲子園のライトスタンドにいるような感じである。野球世代の方なら、ぼくがいかに心細いかをきっとご想像できるだろう。

だからなるべく事を荒立てないように、今回もルールに則って居留ビザの申請をしようと思う(←当たり前のことしか言っていない)

居留ビザ申請のために台北の移民署にやってきました

さて居留証、いやここはレアカードっぽさを強調するために「居留証(ARC:エイリアン・レジデント・カード)」と書きたいと思う。

とにかくその「居留証(ARC:エイリアン・レジデント・カード)」を手に入れる第一歩のために大量の書類を集めて台北の移民署にやってきた。

ここに来るのは2年ぶりくらいだ。前回は学生ビザの延長をするためにやってきた。あの時は入学の1ヶ月くらい前に学生ビザで入国し、後で学生ビザの延長をするというちょっとチートな方法で長めに滞在していたことを思い出す。

この方法は別に違法でもなんでもないのだが、そんなことは誰も想定していないらしく、日本の代表処でそれが可能かどうか確かめるとうまくはぐらかされたので内心ドキドキしていた。

まあ実際はなんの問題もなくビザの延長ができたので、のっぴきならない理由がある方はこの方法で長めに台湾に滞在することも可能だということをお知らせしておこう。

ちなみに普通は身の回りの準備のために早くても入学の1週間くらい前に入国すると思うのだが、この方法ならその気になれば2ヶ月とか3ヶ月早く入国することができる。

もちろん、そのやり方で何か問題が起きてもぼくは責任を取れないのであしからず。そもそも、もしかしたら今はそういうことはできないかもしれない。

そんなこともあったので、ビザとかの手続きとか、そういうのは全部台北の移民署っしょ、と思っていた。その時までは。

皆も注意しよう! 何でもかんでも台北の移民署に行けばいいってワケじゃない

番号札を取り「やっぱり外国人多いな〜。待ち時間もけっこうありそうだな」などと思いながら申請書に記入する。

見本があるのであんまり迷わないが、日本人の場合は名前が漢字なので、名前の記入欄に英語で書くべきか漢字で書くべきか一瞬悩んだ。

悩んだが一瞬だけだ。別によく考えなくても漢字があるんだから漢字で書けばいい。

ちなみになぜ一瞬悩んでしまうのかというと、外国人向けだから申請書は基本英語で全部記入できるようになっているのだ。

だから途中まで英語で書いていて、いきなり漢字で書けるところが出てくると一瞬悩むというわけ。

この気持ちをご想像できるだろうか? たぶんほとんどの方はピンとこないと思う。なんとなくズルしているような気分になるのだが、この気持ちはたぶん台湾か中国か香港…要するに中国語圏でしか味わえないだろう。興味のある方にはぜひ味わっていただきたい。

とここで、どんな気持ちかを伝えるのに、どんな例えが良いか悩んだところ、分かりやすい(とぼくは思う)名案が浮かんだ。

『英語のテストでどうしてもスペルがわからず、苦し紛れにカタカナで回答したところ、おまけでマルがもらえたみたいな感じ』

である。どうだろう。なんとなくズルしている気持ちにならないだろうか。

さて、書類が全部そろっているかを確認したら、一枚だけ足りないのがあって慌てる。でもまあなんとかなるだろうと開き直り、待つことおよそ30分。ようやく順番が回ってきた。

ぼくは得意げに書類を差し出した。このビザ申請のために大変な努力をしたのだ。得意げにならない方が難しいと言えるだろう。

しかし、書類を受け取ったお姉さんから衝撃の一言!

「お住まいは新北市ですね。では台北ではなく新北市で申請してください。あと、結婚して居留ビザを手得される場合は、配偶者も窓口に来る必要があります。」

これはもう、「衝撃の一言」というよりは「痛恨の一撃」である。なんと、わざわざ台北の移民署までやってきたのに、場所が違ったのだ。どうやら住んでいる場所の管轄の移民署で手続きする必要があるのだという。

今思うと、交流協会でもらったレジュメにそう書いてあった。ふだん、他の人にきちんと資料を見るように注意しているのに自分が一番できていなかった。誠に申し訳ございません。

交通の便がめちゃくちゃ悪くてバイクがないと来たくない新北市の移民署にやってきた

ということで、日を改めて新北市の移民署へやってきた。今回は妻も連れて準備は万端である。しかも朝イチに来た。ちなみに、ぼくはバイクの免許は持っていないので妻に連れてきてもらったという方が正しい。

朝イチなら手続きもスムーズに進むだろうとタカをくくっていたら、同じことを考えている人が他にもたくさんいて結局番号札を取って待つことになった。

10分ほどで順番が回ってきた。早速書類を担当の男性に見せる。今回は前回忘れてしまった書類も揃えているので、なおさら得意げだ。

ところがまたしても衝撃の一言、いや会心の一撃が!

「ビザが発行されるまで2ヶ月くらいかかる。その間は引っ越しも出国もできないけど大丈夫?」

引っ越し、するよ! 再来週に!

なんということだろうか。居留ビザは2日くらいでもらえるとどっかで見た気がしたのだが、全くの勘違いだったようだ。

今ここで申請してしまったら引っ越しができない。ということは引っ越し先の澎湖で申請するしかない。幸いにも引っ越ししてからでも間に合うことが分かり一安心するが、なかなかギリギリになりそうだ。

居留ビザという壁は、想像より斜め上に高いのであった。

ということで今回の検証では、居留ビザの申請は住所がある場所で申請しなければならないし、発給されるまで2ヶ月もかかる。さらにその間は引っ越しも出国もできないということがわかった。

みんなも気をつけよう。